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平田オリザ

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平田オリザさんの著書を読んで学んだこと・思ったことが58個あります。
半分うそですが、半分ホントです。
そのくらい為になる本でした。少しでも演劇に、また演者をみて「暑苦しい演技だな」と感じたことのある人には読んで欲しい一冊です。
この本の秀逸さに加えて、自分の欲していた部分を巧いこと言葉にしてくれていて目鱗ものでした。

なかでも最も心に残る部分は、
著者が自身の作品がフランス公演を果たした際、「あなたの作品は三島由紀夫の作品とまったくことなるがそれはなぜか?」という質問に対する答え。

この部分はなるべく自分の考えを語らず、史実に忠実にあろうする著者が唯一自身の考えを数ページに亘って記した部分でもあり、著者肝いりの部分なのかもしれません。

以下要約+私見。
西洋文化の移入と模倣と理論立て、そしてその脅威と日本文化の融合という演劇界にとっての切実な問題を三島由紀夫という才能がある種結実させた。それはヨーロッパ式な「日本人はこのように話さないし、このようなことを話さない、が内容的には伝わる、よって普遍的」という内容を、日本人の違和感を圧倒する芸術性と論理性で凌駕して見せたということだ。
それは2009年現在まで続く、「日本文化の輸出-逆輸入の時間差的コンフリクト」とでもいうような、浜崎あゆみがドラゴンボール主題歌で相変わらず畳部屋・黒忍者?キルビル的日本誤訳を全うしているような、今では「それ日本でもやんないよ」とうような、純日本的コンテンツが多分に含まれており、それは反対に欧米からすれば「ハンバーガーと寿司」というコンテンツの対比をそのまま文化の対比に充てることで問題をスリム化してしまっている現状があり、それが今のなんだか暑苦しい、とっつきにくい演劇の基をなしているのではないか。

そんな問題意識の中オリザ氏の作品には西洋と同じコンテンツが含まれている。日本人はいまやハンバーガーとコーラを食す。しかしその食べ方が違う。そしてこの違いは100年200年かわらないだろう。という。
ではこの食べ方の違いとは?コミュニケーション手段の違いだ。具体的には「私にそれを持ってきてください」というとき、西洋的に言えば、文脈で強調したい単語を強調するのだろうが、日本人なら「それそれそれ、それを持ってきて」とか「私私、わたしんとこに持ってきて」という。こんな違いがあれば、明治期からの諸氏の苦労と今のぼくらの演技への暑苦しさもわかる気がする。
あと、日本人は脈絡に関係の無いとっぴな会話をしているそうだ。こうした会話を外国の人は気持ち悪がるんだろう。
しかしそうしたものを真の意味で自由に表現することが必要であろうし、ヨーロッパにおいてもそうした「コンテンツ主軸ではないコミュニケーション手段の違いなどからの異文化理解」に対する必要性もたかまっているそうだ。

(なんか便宜上、というか話の流れで三島由紀夫作品を悪く言っているようで憚れるが、そんなkとありません)

ちなみに平田オリザさんは大阪大学のCSCDの教授です。来期はぜひ授業受けたいです。
 

おひさし振りです。

おひさしぶりです。
ブログ中断していたのは、これ以上駄文を公共の網にのせることは、
自分の忌むところの世界の改悪に繋がるのではないかと考えたことと、
自分としても、やはり「やすやすと超えられないほどの何か」を生み出し続けることが次への意欲に繋がるので、
言い換えれば表現はそれほど慎重に魂をこめてするべきだと、考えたことにあります。

しかしちょっと書かないうちに何度かうずうずするようになって、特に日記やメモを取り留める習慣の無い自分がこんなことになる事は無かったものですから、やはりいらぬ情報やもという後ろめたさを感じながらも書かせていただくことが、いいかなとも思い本日臨時に再開。

すこし離れていた間、さまざま思うことがあったのですか、前述の通りメモなるものもなく、いつも通り徒然なるまま成る罪をお赦し。。

・わたしは(も)何事においても当事者でいたい。意見を求められたら自分の中から出したい。

・だから反対にわからないことには何もいえなくなる。それどころか‥っひやっ!

・それにはやっぱり勉強だね。

・なりたい自分になる為の、現在におけるボトルネックは何でしょうか?お金?知識?それとももっと根本的なもの?(それこわい!)

・話は変わって右脳と左脳。ぼくは言語化できない感動、右脳的としか言えないものが右脳的なもの。それを言葉や論理で区切って人にわかりやすくしたものが左脳的なものだと思っているんです。

・二項対立が既に左脳的では?確かに。これは京都造形大のAAこと浅田彰氏の資本主義⇔社会主義の対立をずらして(?)考える、考えを参考に考えてみようかと思います。

・吉本隆明氏いわく、の自己表出と指示表出という考えもある。花を見て思わずきれいだとつぶやく言葉、心の言葉が前者。だれかに「きれいだね」ということばは後者である。また前者の幹となるのは「沈黙」であると、な。ふーん

・話は変わって、結局ひとは大きく言えばジェネラリストになんかなれなくて(凄い日本語)、たとえば小難しい顔ばっかしてたら、世界における「小難しい顔してるパート」を演じることになる。
つまり小難しい顔して考えている人は、その顔をしているあいだ、自然社会から得られるアイデアという恩恵の代わりに、自然社会を維持させるべく「小難しいパート」を担わされているというか、それはつまり大工さんの特異なタコみたいなもんで、選んだ生き方によって特異な「社会的なタコ」みたいなものを押し付けられるようなもの。またその「恩恵」の兌換がお金なのでは?つまりお金が兌換するものは自分が自然社会から変容したもの・されたもの。

???

・よくわかりませんけど世界の全部を知って当事者に成りたかったぼくです。ジェネラリストになれないってわかりましたから、自分のやりたいことをやって、やりたくないことを楽しんで、人生をおもしろがっていきたいなーと思います。

・たとえば小室哲也氏の楽曲が事件後発禁になったことについて、「作り手と作品は分けて扱われるべき。作品は世に出たら独り立ちする」という意見があります。これは「ポロックの絵から名前を取っ払っても作品として維持しうるか?」という意見と少し関連があるように思えます。
確かにいちど世に出た作品をどう評価するのは受けての自由ですからどう捉えても自由です。
そして作者が後々どうなろうと作品自体には遜色がありません。でもやはりより深く作品を味わおうと思えば作者のバイオグラフィーや製作中の葛藤なんかに思いをはせてみたくなるものです。そうしたなかで右脳的な感動が生まれるとぼくは思います。そうした意味を追求したのがポロックであると思いますし、共感します。しかし「小室氏問題」はもうすこし根が深いように思えますので、今日のところはこのへんで、もう少ししつこく考えて見ます。

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